月刊 Fruits Life No.43 |

◆冷凍フルーツの生産に入りました
4月に入りFL工場では冷凍フルーツの生産に入りました。
需要期前から製造し、冷凍フルーツの製品在庫を積み上げていくことで、夏場の大量のオーダーに前もって対応していくためです。
冷凍フルーツは、チルドフルーツ(当日製造―当日出荷)と違い、賞味期限を1年としているため、こうした生産調整が可能になります。
■積みあがる在庫
一方で夏の需要期の生産を4月から始めていくためには、原料―製品ともに多くの在庫が必要となります。
経営的な観点からするとキャッシュフローが厳しくなってきますが、経営努力の結果二か月分程の在庫を持つ余力が生まれてきました。
4月時点の生産目標は、パインスライスは20万食、パインスティックは10万食、リンゴは5万食の生産予定です。

FLは既に、パインをワンシーズン分確保しています。
商社経由ではなく、タイ現地工場とFLとの直接取引のため、販売単価を極めてリーズナブルな価格で提案することが可能となりました。
①スライスパイン
スライスパインは昨年の2倍の4コンテナ確保しました。(Borploy)
②スティックパイン
コスタリカ産からタイ産に産地変更となったスティックパインは3コンテナ確保しました。(Samroiyod)
食味的に酸味が強くなっていますが、価格を16年輸入時点で比較すると、タイ産スティックパインは、コスタリカ産に比べ1個当たり約20円安くなっています。

南ア産GL黄桃・洋梨は例年通りの生産です。
但し黄桃に関しては夏終盤の黒ずみ、洋梨については粒の大きさに悩まされる事も例年通りと思われます。
■リンゴ
昨年に続き原料入荷が非常に困難になっています。
FLは昨年の実績分の原料を確保できる予定ですが、見通しはいまだには っきりしません。そのため冷凍リンゴに関しては案件ごとの提案となります。
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■行楽地向け冷凍パイン

今夏は長島スパーランドをはじめとしたアミューズメント系の行楽地で販売します。
◆春まだ浅き頃

もう十年以上前になるだろうか。中堅のオフィス家具メーカーで働いていた頃だった。工場の中は、プレスの音が響き溶接の火の粉が飛んでいた。
冬の工場は凍えるように寒かった。材料の鉄は氷のように冷たく、暖をとるものといったら工場の真ん中に置かれた石油ストーブだけだった。年度末が近くなる今の季節は一年で一番忙しい時期だった。
私は入社して三年目くらいだったろうか。入社当時製造していたものは旧態依然とした折り畳みテーブルだけだった。当時オフィス家具業界も中国製品が雪崩のように押し寄せ、安価な製品を作っていた工場はメーカーとしての存続を問われていた。そんな時入社した。いやむしろ瀬戸際の状況だったからこそ創業者の社長が私を役員に誘ったのだった。
入社して二年目くらいから状況が変わってきた。カウネットやたのめーるという大手通販に製品が採用され始め、オフィス家具大手のプラスに採用された。
プラスのベテランMDに信頼されてからは一気に数字が伸びていった。そして新製品をプラスと共同開発するようになった。そんなこともあって業界で話題のメーカーとなりオーダーが次々に入るようになっていった。いわば勝ち馬に乗るような状況で、その勝ち馬が私の工場だった。
三月に入ると工場は残業つづきとなった。納期に間に合わない厳しい状況がつづいていた。そんななか皆が帰った後、一人黙々と生産をつづけていた青年がいた。溶接工のN君だ。誰もいない深夜の工場の中に溶接の音が響いていた。
長い時間溶接の火花を見つづけていると瞳が焼ける。真っ黒なレンズの付いた溶接面を付けていても眼が痛くなってくる。眼を閉じると瞳の奥に光が広がり、床に就いても光の残像が浮かんで眠れなくなってくる。
もう11時になろうとしていた。昼の休憩から既に10時間ほど経っていた。
「N君、そろそろやめようか」
私がそう言うと、N君は溶接面を取って私を見た。
「いいっすよ、だって納期間に合わないとサノさん困るじゃないですか。
「俺はサノさんのために仕事してるんすよ」
N君はそう言うと、溶接面を被り再び仕事を始めた。
N君は寡黙な青年だった。どんなことも文句一つ言うことなく黙々と仕事をした。技術も高く、新製品の開発はN君と相談しながら進めていた。
開発した製品が大手メーカーのカタログのトップに載るようになると、私とN君の信頼関係はより強くなっていった。小さなメーカーといってもN君の未来が少しずつ見えてきたのだろう。そうしてN君はいつも私を支えてくれていた。
困難はいつだってあった。仕事が行き詰まったときはもちろん、順調な時でも問題はいつも発生した。納期に遅れたり、クレームが発生したり、そして資金繰りが苦しかった。しかしそうした困難を一緒に働く同僚たちと一つひとつ乗り越えていった。
それから一年半程で私は会社を辞めた。会社が危機を脱し、工場が順調になってくるに従ってそれまで全てを任せてくれていた創業者が口を挟むようになってきた。オーナーであるのだから会社運営に口を出すのは当然といえば当然なことだ。工場運営に対立することが多くなってきた。公私混同、朝令暮改、ワンマン経営者にありがちなことだった。そのうち我慢ができなくなって私は会社を辞めた。
私が辞めたことで、N君をはじめ従業員や取引先に迷惑をかけることになった。何度も引き止められたが、私はつまらない意地を通してしまった。
私が辞めてから、N君もじきに退職したと聞いた。それから五年程経って会社は倒産した。
年度末の繁忙期、まだ春浅いこんな頃になると決まって工場のことを思い出す。
N君、一緒に仕事をしていたら、きっと全国に誇れる工場になっていただろうね。N君ごめんな。。。

















