月刊フルーツライフ No.141 |
漂白の俳人
山頭火と放哉にみる流離
寄稿 サノトシハル
三十年以上前、大分県竹田に旅をしたことがあった。
旅館の窓からは市内を流れる稲葉川のせせらぎの音が聞こえていた。
豊後竹田は滝廉太郎「荒城の月」の舞台になったところだ。
駅前の古い旅館に宿をとった。
玄関に入ると版画が掛けられていた。
部屋や廊下にも版画が掛かっていた。
季節は寒中、椿の花が咲いていた。
版画には種田山頭火の句とともに椿の絵が描いてあった。
その時初めて版画家秋山巌を知った。
若かったこともあり、今ほど山頭火のことを知らなかった。俳句そのものもそんなに知っていたわけではなかった。
とはいえ秋山巌の描く山頭火は見詰めるほどに心に刺さっていた。
旅の途中、鄙びた旅館、
川のせせらぎ、凛とした空気
そうした日常と離れた時間が山頭火の句をいっそう心に沁みさせた。
そして時が流れてこの春、金子兜太が選句した山頭火にひと月耽溺した。
種田山頭火は、山口県防府の大地主の長男として生まれ、酒造業を営む父の放蕩の末家は零落、母フサは井戸に身を投げて自殺、早稲田大学に進むも退学して帰郷。その後父とともに酒造業を再開、サキノと結婚、長男をもうけるも再び事業に失敗して破産、逃げるように熊本へ。
時を前後して萩原井泉水に師事し山頭火の号で創句を始めた。
山頭火は人生の失敗を繰り返し、家も金も、妻も子も、全てをなくし行乞流転の旅に出た。
生涯三度の放浪の旅に出るが、原因のほとんどは酒による失敗とひとつ所に とどまることのできない性分の所為だった。
山頭火は己のつくった恥から逃げ出すように旅に出た。
もう一人の漂白の俳人尾崎放哉、山頭火は尾崎放哉を慕っていた。
酒に溺れ失敗を繰り返し小豆島の南郷庵で孤独のうちに死んでいった放哉。
鴉鳴いてわたしも一人
放哉の「咳をしても一人」に山頭火が連句したものだ。
しづけさは死ぬるばかりの水がながれて
この句につづけて山頭火はこう書いている。
「私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はないのだ」
うしろ姿のしぐれてゆくか
1931年の年の瀬、三度目の旅に出立した時の句、金子兜太はこの句を「己の宿命をただ噛み締めている」と解説している。
三度目の行乞は、年をとり体も衰え、時に病むこともあった。
梅干、病めば長い長い旅
けふもいちにち風をあるいてきた
そして1939年5月3日、山頭火が生涯師と仰ぎ何度も訪れようとして果たせなかった長野県伊那谷の井上井月の墓にまいった。
お墓したしくお酒をそそぐ
井上井月は漂白の原形のような俳人で、伊那谷を彷徨い地元では乞食井月と呼ばれていた。
大酒飲みで、伊那の名家に俳諧を教え歩き、時に請われて揮毫して小金を稼いで暮らしていた。
山頭火は漂白詩人の三つの型と日記に書いている。
一/芭蕉
二/良寛・一茶・井月
三つめの型は自分自身としたのだ。
山頭火を見ていると、温かな居場所から逃げ出すように放浪のなかに自ら入っていく姿が、山田洋次「男はつらいよ」の車寅次郎と重なってくる。
一方山頭火に比べて、放哉にはやむにやまれずそこにしか行き所がなかった流離の果ての絶望が見えてくる。
吉岡昭は尾崎放哉の評伝「海も暮れきる」のなかでこう書いている。
「東大を出て一流会社の要職にも就いた男が、職を追われ妻にも去られて剥落の身となってこの島まで流れて来た」
終の住処となった小豆島、南郷庵に辿り着いた放哉の句
之でもう外に動かないでも死なれる
歌人の東直子は、心が辛くなったとき尾崎放哉の句集を開くという。
潮満ちきつてなくはひぐらし
放哉は寺の離れの荒屋で、何の縁もない隣家の女に看取られて息を引き取った。
淋しいぞ一人五本のゆびを開いてみる
1926年4月7日の朝だった。
そして山頭火。
1939年12月15日、山頭火は松山城の北、御幸寺の一軒家を世話してもらい自ら一草庵と名付けた
頭火は松山を終焉の地とした。世話をしてくれた友人らにこう語っている。
「…私の分には過ぎたる栖家である、私は感泣して、すなほにつつましく私の寝床をここにこしらえた」
山頭火は一草庵で句会を開き、正岡子規の伝統を預かる野村朱鱗洞の十六夜吟社を復活させた。
1940年10月11日、前夜から句会のあと酔い潰れたまま目を覚ますことなく五七歳の生涯を閉じた。
漂白とは流離を求める心なのだ。
ひとり住んで捨てる物なし
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6月はバンコク・香港一週間の旅から帰って、東北・北陸を車で一人旅をしていました。
盛岡の開運橋、岩手県立美術館の舟越保武と松本竣介、金木の斜陽館、酒田の山居倉庫、鶴岡の藤沢周平記念館、新潟の萬代橋。仕事を挟みながら一つひとつの景色が心に残る夏旅…。
この年齢になっても旅は思い出を刻み、人を成長させるのだと思いました。